わたしの文章を忘れた頃にそっと消してくれる機能があったなら、必ずONにするだろう
「自分が書いた文書を読み返すのって、とんでもなく恥ずかしいよね」
文書を書く友達と、そういう話をすることがある。
めっちゃわかるわ〜、とか言いながら、毎度それが何なのか、特に気にすることなくやり過ごしてきた。それが何なのか、気にしてしまったら、なんか面倒くさいだろうなと、わかるからだ。
その「恥ずかしさ」は、ただの恥ずかしさではない。もっとちゃんと言うと、ぐしゃぐしゃにしてヘドロの浮かぶ汚ったないドブにこっそり捨ててしまいたくなるような、恥ずかしさなのだ。
すごい嫌悪感が、それには含まれている。嫌悪感、そう、嫌悪感、というのがしっくりくる。
ああ懐かしいな、こんなこと考えてた時期もあったんだなとか、冷静に、または微笑ましく読み返すことができない。だいたい、半分も読まないで、気持ち悪くて読むのをやめてしまう。
例えるならば、留守中に全く知らない人間が自分の部屋に勝手に入り込んで、冷蔵庫の中のお菓子をあけてポリポリ食べながら、勝手にパソコンを開いて、ブログをアップされていたような感覚だ。
読めば読むほど、知らない誰かが書いた文書みたいに思えてくる。むしろ、知らない誰が書いた文書だと言ってくれ、と。
自分の記事を読み返す度に嫌悪感を帯びた恥ずかしさを感じるようになってから、自分のブログを開きたくなくなった。そして、しばらく、ものを書かなくなった。
それでも何かあったとき、これは文書にまとめておこう、と頭がまわり書こうとする。でも、書けば書くほど、あの気持ち悪さがこみ上げて、面倒くさくなって、やめた。
何かの小説で、乗客を乗せた飛行機が突如雲の中に消えてしまって、彼らのご家族が、これは事故だったんだということにしてお葬式も済ませた何十年後かに、死んだはずの彼らが生き返って現れる、というお話があった。
彼らが生き返って帰ってきた時、ご家族は、戻ってきてくれてありがとう、嬉しい、という気持ちだけではなく、戸惑ったり、怒ったり、つらい想いをするのだ。やり場がない中一生懸命整理した感情たち、彼らがいなくても平穏に過ぎていっていた暮らしの一つ一つが、彼らが戻ってくることによりかき乱されてしまう。
なんかリアルだな、と思った。
残酷だなと、思った。
どれだけ大事な関わりも、時が経って自分や周りが変化したら、それが大事なものではなくなる。それを俗に「卒業する」「手放す」とかいうのだろう。「卒業する」「手放す」という行為は、美しい、素晴らしいものだと思われることがほとんどだ。
それは、その時に大事だったことが、大事なものとして、その時に自分の中からなくなることを大前提としているからなのだと思う。そんなことは当たり前すぎて、私たちはあまり気付かない。何かを捨てたら、新たな大事なものがやってくるという当たり前を「当たり前」と認識することもなく、ひたすら平和に生きている。
きっと、ずっと前に手放した、自分にとって大事だったものが、後からひょこっと戻ってきても、残念だけれど拒まざるを得ないのだ。それは、もうわたしの大事なものではないんだよ、と。
話が大きくそれたけれども、この小説の中の、リアルな残酷さが、わたしの書くという行為に宿っている。
書くことは、いわば自分自身のお葬式なのである。
目を背けたくなるようなどす黒い部分とか、誰か泣いてすがりつきたくなるような小さい子どものような弱さ、他にも、よくわからない、わたしの中にいるへんないきものを全部、燃やして灰にして、土に還してしまいたい。ありがとう、さようなら、と。
いつも本当に書きたいものは、わたしの心臓からズルッと取り出して、「ないもの」にしてしまいたいことだった。
人はだれでもそういうものを抱えていると思う。自分で自分を殺したくなるような、罪深さを。
でも、どうにかして、美しいやり方で殺してあげたい。そんな唯一の小さな希望を叶えるのが、わたしにとって書くという、ある種の儀式なのだ。だから、言葉もあえてギリギリ攻める感じな言い回しをしてみたり、それと対象的にきれいで優しいポエムみたいにしたりする。
罪深さを、言葉というベールで包み込んであげられるように。
だから、何か嫌な後味のする出来事があるときに、書こうとする。書かずにはいられなくなるのだ。とにかく書けば、少しは楽になるから。お葬式をして、嫌な出来事をきれいに祀って、仏さまみたいにしてしまおうとする。
自分の書いたものを読み返すときに感じる嫌悪感というのは、祀ったはずの生き物が生き返ってしまうことなのだ。生き返ってほしくないものが、生き返ってしまう。それは、ただの残酷な出来事なのである。あの小説みたいに。
こうして、また今夜も久しぶりに自分のお葬式をして、いつもより少し、気持ちよく眠りにつく。
いつかこれを読みかえすときに、また嫌な気分になるのだろうか。
はやくAIが発達して、人間の感情の支えになってほしい。
そしていつか、わたしの書いた文章を、忘れたころにそっと消してくれる機能がついたら、すかさずオンにするのだ。
この感覚、共感してくれる人っているのだろうか。