だからこそ、もうすこし面と向かって話をしてもよいのではないでしょうか
お母さんが、(精神科の病院に)入院した。
お見舞いに行くと、真っ白い箱のような部屋で、痩せ細って、うなだれていた。
他愛もない会話の中で、「独りがこわい」「独りにしないでね」と何度も言っていたことが、とても印象的だった。
「(家族と)一緒にいる」という、目の前にあるまぎれもない事実を受け入れることなく、むしろそれによって、孤独な自分、もしくはこれから孤独になるかもしれない自分をうつしだしているかのようだった。
もしも、お母さんが今の病状で死んでしまったとしたら、私はとてつもなく後悔するんだろうな、と、ばかなことを想ったりした。
私たちは否応なしに毎日、だれかと一緒に過ごしている。
そのだれかとは、何年か後にはほとんど会わなくなる。
久々に会ってみると、あんなに一緒にいただれかが、遠い場所にいるように思えてくる。
昔話をしては盛り上がる。うすく消えてしまいそうな「つながり」を、時間の流れに逆らって、引き戻そうとするみたいに。
事実「つながり」は、思っている以上に脆くて、友だちでも恋人でも、家族でさえも、ただひたすらに「(今この一瞬に)たまたま一緒にいる人」「たまたま産み落とした、産み落とされた人」でしかない。
それでも、それだから、いつも「つながり」を求めて、確かめあう。
たくさんたくさん連絡を取り合ったり、SNSをアップしたりチェックしたり、何かをあげたりもらったり。
何より一緒にいれば、笑えて、楽しい。時間があっという間に過ぎて行く。
私たち各々が、どこまでも孤独であることを忘れたり、ごくたまに頭によぎったりしながら。
「一緒にいる」って、何だろう。簡単なようで難しい。
でも、あるところで決定的に「一緒にいる体験」をすることがある。性格や考え方が異なっていても、つながりを求めたり、確かめなくとも。
強烈で、(時に)一時的で、なぜか自分独りの輪郭がはっきりうつし出される、なのに心穏やかな、ちょっと不思議な体験。
そんな優しい出来事を、「寄り添う」とか「対話する」とか呼んでいるのだけど、それらがどういうことなのか、私はいまだに、ちゃんとわからない。
でも、きっとそれでいい。人生ながいからね。
「不思議なことに、この社会では、人を尊重するということと、ひとと距離を置くということが、一緒になっています。このことは、とても奇妙なことです。 (中略) 私たちは生まれつきとても孤独だ、だからこそ、もうすこし面と向かって話をしてもよいのではないでしょうか。」
(「断片的なものの社会学」 あとがきより)
「がんばらないことを、がんばらないでね。」
お見舞いのおわりに私は、ふとお母さんに伝えた。
帰り道の寒空の下、駅のホームで、ぼうっと今日あった出来事を思い出す。
ー がんばらないことを、がんばらないでね。
それは、独りになって、ふぅ~っと長く深いため息をついた私自身への言葉だったのかもしれない。
(そして、ブログを読んでくださっているあなたへ、も。)
よくわからんことばかりだけど、一つ気づいたことがある。
寄り添いたいなぁと思って人と接してると、自分まで幸せな気持ちになってくる。
だから、寄り添いたいなぁとおもう人がいることは、幸せだ、ということだ。
yuico *