「他人だからこそ」できる、最も贅沢なこと
その日の夜、ちょっとボロいミニクーパーを高速道路に走らせながら、
私たちは、各々が独り言をぼやくかのような小さな声で、いろんな話をした。
「仕事してて、自分がつらくなることってないの?」
「うーん、正直、この人がどうなってもいいと思って、向き合ってるんだ。いいことがあってもなくても、楽しいこと・つらいことが起きても起きなくても。それは、そんなに重要なことじゃない。」
カウンセリング(寄りのコーチング)をしている人だった。
ラジオの流れる暗い車内で、仏様のようにニコニコしながらそんなような話をしてくれた光景を、今でもしっかり覚えている。
そして、なんとなく理解できたその言葉たちの意味を、今は心の底から理解できる。
大切にしたい人であればあるほど、
色々と想いを馳せた後、結局は「私は、この人がどうなってもいいんだなぁ」と思うことが、最近とても多い。
「(この人が)今の願いたち、未来の願いたちを、いつか叶えられたらいいな」
「気持ちが晴れない原因を、いつか手放せたらいいな」
「新しいことを経験して、今よりもすこし自分を誇れたり、人に優しくなれたらいいな」
「それらがもしできなかったとしても、"この人たらしめるもの"を大切にしながら暮らせたらいいな」
近すぎず遠すぎずの場所から、そんなことをフワフワと思いながら浮遊する。
そこに、「期待」はほとんどない。
代わりに、心の中に「祈り」に似たあったかいものを感じる。
お腹の中に、たっぷり水分を感じるみたいに。
― ただ、相手の鏡のようにいること。
それが「他人だからこそ」できることの中で、お互いにとって最も贅沢なのことなのではないか、と思う。
出会いには必ず必然性がある。
私たちは、素晴らしい人々との出会いを、素晴らしいタイミングで、素晴らしく引き寄せる。
わたしの場合、ここ一年「鏡になってくれる人たち」にたくさん出会い、気づくことが、たくさんたくさんあった。
少なからず自分のアイデンティティを変える出会いだった。
さてと。これから、何をしようか。
カウンセラーにでもなろうかね。
yuico *