答え合わせは、もうやめよう

ふらっとひとりで大好きなミニシアターに立ち寄って、面白いけど退屈なドキュメンタリー映画みながら、ちょっとだけ寝落ちする瞬間、


これを幸せと呼ぶのか、と想った。




例えば、「幸せって何だろう」なんて問いと一生懸命向き合ってる時こそ、そういう幸せな瞬間を素通りしてしまう。



そんなの、本当にバカだ。




小さい頃から心のどこかで「答え」がほしくて、どっかに転がっていないかなぁって、いつも好奇心を揺さぶってきた。



インターネットのおかげで、講演家、執筆家、ブロガー、スポーツ選手みたいな偉人たちから、周りにいるたくさんの素敵な人たちまで、「答えみたいこと」の発信者と簡単につながれるから、

いつでも「答え」を探すのに時間を費やしてきた。



それらに一生懸命触れて、ささる言葉や感情があって、それが「自分の答え」なんだと思っていた。




けれど、「自分の答え」みたいなものを見つけた時の熱量は、気がつくと消えてしまって、少し違ったのかなぁって、また「答え」を探す旅に出る。



別の人が言う全く違う「答え」にまた惹かれて、少し戸惑ったりする。






「ああ、何やってるんだろう」って。






振り返るといつも、「自分の答え」と「世界の(世間の)答え」とに間違いないか、答え合わせをしている。


けれど、答え合わせをしてもしても、100点なんて全然とれなくて、なんだかいやになってくる。


「そもそも、この世界に答えなんてないのかもしれない」とも思うのだけど、心のどこかでしっくりこない。







そんな時には、「君のそのままが最高だ」って言ってくれる人に会いにいって、対話させてもらう。どこかで本当の自分に立ち帰れる気持ちになる。






結局、自分が求めていることは、いつも、自分の内側にあって、


想像しているよりもはるかにずっとシンプルなのに、

凝り固まった当たり前や誰かの評価に翻弄されて、考えているようで、ただ難しくしていることがたくさんある。





「答え」はきっとどこかにあるものでも、そもそもないものでもなくて、


「答えは、わたし」なんだ。



そしてそれは、テストの解答みたいにたった1つだけではなくて、自分や世界の時間軸に沿って、どんどん変わっていく。




くっついては離れて、

捨ててはまた拾ってを繰り返して、

その道のりが、きっと自分をつくっていく。




だから、たくさんの「答えみたいなもの」を集めて答え合わせするのはやめよう。


どんどん、世界を自分にしていこう。





yuico*