春風とわたし
ずっしり重たいコートにくるまって、くるくるとマフラーを巻いて、両手をポッケにつっこんで出かけるのがすごく好きなのだけど、マフラーが、コートが、一枚一枚いらなくなっていく、あの感じも好きだ。
何かつっかえがとれたみたいに、からだがふわっと軽くなる。いつもの風景が、なんだか笑っているように見える。
くしゃみをしながら改札を出て、颯爽と階段を降りて、春もすぐそこ。
わたしたちは、いらないものとか、いらない感情とか、まといながら歩いてる。わかっちゃいるけど、いらないからと置いていくのも勇気がいるし、なにより悲しいことだから。優しくコートやマフラーをぬがせてくれる春風を心のどこかで探していたり、春風みたいな人になりたいなって思う。
大人になって、変化を嫌うようになるというけれど、わたしの場合は、嫌うというよりも、変化をしなくてもいいんだと思えるようになった。
少し昔は、もっとがむしゃらだった。変化をしないなんて、つまらない人生だと思っていた。変化をし続けてる人を見て、彼らと一緒にいたら、ここよりももっと楽しいどこか行けるんだと、そう思っていた。
ちょっと頭のおかしい、クレイジーな女の子でありたかった。友だちを1000人くらい欲しかった。恥ずかしがり屋のくせに、実は誰かの注目の的になりたかった。仕事で死ぬほど働いて、野望を燃やしていたかった。
あの衝動的な欲望みたいなものは、何だったんだろうなって、思う。
大変だなぁと思うこともあるけれど、今、ふかふかの芝生の上をスキップしているかのように、とっても軽やかに生活している気がする。
もちろん、自分よりもうまくやれる人をひがんだり、自分はどうしてこんなに、と思うこもある。だけれど、美味いご飯を食べてお風呂に入ったら、まあいいかって思える。
できないことがあったら、一つ一つできるようになればいい。それでもできなかったら、誰かにお願いしたらいい。
この文章も、誰かにおしゃべりするみたいに、書いている。今までで一番、気持ちよく、軽やかに書いていると思う。
人生にも四季がめぐっているとしたら、30を手前に、もうすぐ春がやってくるのだろうか。
いつだか、お母さんから桜の花びらでいっぱいの、公園の地面の写真が送られてきたことがあった。
おばあちゃんの家の隣にある公園の桜の花びらだった。桜の木がいっぱい植わっていて、毎年信じられないくらい桜が咲く。
おばあちゃんが、亡くなるちょっと前に、「あそこの桜が見たい」って言っていた。
おばあちゃん、天国で元気にしているだろうか。
わたしは、元気にしています。