ゆいこの、徒然なるままに

~ ひとと自然に寄り添った暮らしを、ゆるりと ~

嗚呼カオナシよ。君のおかげで、わたしは会社を辞められませんでした




「で、どこいくの?」
「○○大学に行くことになったの」
「ああ、そうなんだ~」
「……」

沈黙が、全てを物語っていた。
まっすぐ目を見られず、廊下の床に目を落とす。
黒ずんだ木の模様が広がっている。
行きたかった大学には、行けなかった。
わたしは地元群馬の「偏差値の低い」大学に、行かなければいけない。
友だちも、親も、先生までもが、駄作を見るような目で、わたしを見ているような気がする。
高校生のわたしには、それが耐えられなかった。
努力は報われる、なんて、くそくらえだ。

大学の入学式。
前にいた女の子の耳たぶには、見たことのない数のピアスがぶら下がっていた。
ふと、顔をあげた。
講堂を見渡すと、全員ギャルに見えてきた。
もう、絶望的な気分になった。

「で、どこいくの?」
「○○大学に行くことになったの」
「ああ、そうなんだ~」
「……」

あの、床の黒ずんだ木の模様を、思い出す。
わたしも友だちみたいに、傑作になりたかった。

きっと、
オシャレな服を着こなせば、
海外留学すれば、
いい会社から内定をもらえれば、
大学では、わたしも傑作になれるだろうか。
あの沈黙の向こう側にいた、高校の友だちや先生を、見返せるだろうか。

この時だったのだろう。
わたしの心の中に、こっそり「カオナシ」が住み着きはじめた。
カオナシとは、かの有名な「千と千尋の神隠し」に出てくるキャラクターだ。
黒い体に、お面をつけたような姿をしている。
偽物の砂金、盗んだ薬湯の札、人の欲しがるものは何でも出す。
喜んでもらいたい、認めてもらいたい、一心で。
己を持たない、悲しい影。
まるで、からっぽな影。

受験に失敗してから、わたしは傑作になることばかり、考えた。
「すごいね」「さすがだね」
そう言われる度に、わたしの心の中のカオナシが、静かにガッツポーズした。
何度も、何度も。

「偏差値の低い」大学を卒業したわたしは、ついに上京した。
入社して、一番勢いがある、営業の部署に入った。
わたしは、運が良かった。
入社半年経ったときに、一つの新規事業を任されることになったのだ。
それがきっかけで、会社の会長に気に入られた。
打ち合わせや同行営業は、刺激的で、面白かった。
「会長の指示で」「会長の紹介で」
この魔法の一言で、お偉い幹部の方々にも、大きなクライアント先にも、一発で話が通る。
すごいのは会長であって、断じて、わたしではない。
仕事も大してできないくせに、何度も忘れそうになった。

早いもので、東京に出てきて、もう4年が経つ。
電車や地下鉄の乗り換えは、検索しなくてもわかるようになった。
行きつけのバーもできた。
気づけば、かつてのダサい田舎娘だったわたしは、パリッとした東京の女になっていた。
仕事では、社内外様々な方と一緒に、仕事をすることが増えた。

「先輩、そもそも、○○っていう話でしたよね」
「うーん。小川さんが言うように○○だとしても、△△がいいと思うけど」
「……。じゃあ、それでいいんじゃないですか」

いつからか、話が通じない人たちは「仕事ができない人」だと、なめ腐った態度をとるようになった。
わたしの伝える力が足りないことは、しっかりと棚に上げて。
わたしのことを悪く言う人たちは、片っ端から脳内ブラックリストに名前を書くようになった。
そのくせ、嫌われる勇気は微塵もなくて、彼らの言動を過大解釈しては、心のどこかで落ち込むのだ。

最近、人に対して、無性にイライラする。
無性にビクビクする。
人を嫌いになることが、ものすごく多い。

「てかさ、何でそんなにたくさん、人とぶつかるんだろうね」
同僚に言われた。
何も言えなかった。
確かに、不思議だった。

「お前は誰だ」
「お前は誰なんだ。何者なんだ」

何度自分に問うても、よくわからない。
もう、何もかも投げやってしまいたくなる。
好きで、やりたい仕事でもない。
やってみたいことは、他にもある。
もう、会社をやめようか。
でも、こんな自分でいいのだろうか。
違う場所に行っても、同じことが起こるのではないか。
頭の中で、1000回くらい堂々めぐりした。

結局、わからないまま、会長に伝えた。
「あの、ええと……」
そりゃそうだ。うまくなんて、言えっこない。
大きく空気を吸い込んで、単刀直入に言い放つ。
「わたし、会社やめさせていただきます」
会長のぼさぼさした眉毛が、一瞬、ハの字になった。
今まで見たことのない、あの寂し気な目を、きっとわたしは一生忘れないだろう。
わたしが話し終わると、会長はいつもの笑顔に戻って、ゆっくり口を開く。
「わかった。わかった。まぁ、やめてもいい」
会長は少し考えてから、続けた。
「やめてもいいが、俺に猶予をくれ。一人で頑張っていたのに、しっかり見てやれなかった。俺が悪かった。実は俺の家にな、お前の仏壇が置いてあるんだぞ。毎日、ごめんよ、ごめんよって、拝んでいるんだ。だがな、今、いっちばん面白い時期なんだ。だから頼む、9月末まで俺に猶予をくれ」

なぜか、泣けてくる。
「泣くまい」
脳みそからの必死な指令もむなしく、涙は溢れて止まらなかった。
シリアスな話題にも関わらず、ユーモアたっぷりな話をちゃっかりしっかり挟んでくるから、わたしは泣きながら、声をあげて笑っていた。
嬉しかった。
さすがに、仏壇が置いてあるのは嘘だろうけど、こんなにも愛を持って引き止めてくれるとは、正直思っていなかった。
嬉しすぎて、彼が昔、トップ営業マンだったことを忘れていた。
本当に、ずるい人だ。

「9月末まで、一緒にがんばろうや」
会長の力強い提案に、わたしはつい、頷いてしまった。
会議室を出る時には涙も尽き、自然に笑みがこぼれる。

でも、自分の席に戻って、安っぽい椅子に座ると、やっぱりいつもの景色が広がっている。
メールボックスを開くと、未返信のメールが溜まっていた。
さてと、と、メールの返信をする。
電話をとる、書類をつくる。
苦手な先輩と打ち合わせをする。
空気が淀む。
耳の奥から、貧乏ゆすりの音が聞こえてくるようだ。
刻々と、時間は過ぎていく。
ふと思った。
現状は、何一つ変わっていない、と。

帰り道、電車の窓に映る自分が、何だか別の人に見えてくる。
「俺に猶予をくれ」
そう言われて、なぜか救われた気がした。
心がすっ軽くなった気がした。
あれは、何だったんだろうか。
「お前は頑張っている」という言葉が欲しかっただけなのだろうか。
それだけで、会社をやめることを引き延ばしにしてしまったのだろうか。
わたしは、一体、何のために、この会社にいるんだ。
わたしは、何のために仕事してるんだ。
わたしは、何でイライラしたり、嬉しくなったりするんだ。

評価がほしいのか。
認めてほしいのか。
「すごいね」「さすがだね」
そう言われたいのか。
それをしてくれない人は全員、脳内ブラックリスト入りなのか。

「お前は誰だ」
「お前は誰なんだ。何者なんだ」

嗚呼、そういうことか。
やっと、わたしは気付いた。
大学受験。高校の廊下。黒ずんだ床。木の模様。沈黙。
「お前は駄作だ」と、同じ意味だと思っていた、沈黙。
「あ…。あ…」
わたしの中に住むカオナシだけが、さみしそうに声をあげていたであろう、沈黙。
どうやら、あの時のカオナシは、いまだにちゃんと、わたしの心に住み着いていたようだ。
答えは、高校3年生のわたしが教えてくれた。

あの時の沈黙を、思い出す。
あれは、一体何だったのだろう。
本当に、「お前は駄作だ」という意味だったのだろうか。
少し考えてみれば、簡単な話だった。
わたしにかける言葉を考えている、沈黙だったのではないか。
「志望校に受かった自分が、落ちてしまったこの子に、どう声をかければ励ませるだろうか」
もしかしたら、困っていたのかもしれない。
必死に考えていたのかもしれない。
わたしは、床を見るばかりで、彼らの顔を、目を、見ることはなかったから、真相はわからない。
わからないけれど、わたしはただ彼らの気持ちに気づくことなく、勝手に自分を痛めつけていたように思えた。

高校生のわたしの心に住み着いたカオナシ
社会に出たわたしの心に住んでいるカオナシ
きっと、同じカオナシだ。

ここ東京で、毎日朝から晩まで働く。
気の合わない人と、一緒に仕事をする。
イライラしたり、悲しくなったり、むなしくなったりすることが、腐るほどある。
「あの人のせいで……」
出来た人間じゃないから、人や環境のせいにする。
そんな時、わたしの心の中のカオナシが、短い手から何かを出そうとする。
「傑作」になろうとする。
でも、認めてもらえないと、脳内ブラックリストをのこのこ引っ張り出してくる。
やりきれない気持ちを、子どものように態度でぶつけようとする。
「千が欲しい」「千が欲しい」
そう繰り返し叫びながら、暴走するカオナシのように。

久々に、千と千尋の神隠しを観かえした。
物語に出てくるカオナシの行方は、とてもシンプルだった。
「おまえはここにいな、あたしの手助けをしておくれ」
最後、銭婆がカオナシの名前をちゃんと呼び、糸を紡ぐ仕事を与える。
誰にも認めてもらえなかったカオナシのお面は、心なしか、穏やかに見えた。

そりゃそうだ。
誰かに認めてもらいたい。
見栄を張らず、安心していられる居場所が欲しい。
きっと、誰だったそう。
弱いのだ。
びっくりするくらい。
多分、誰の心の中にも、カオナシは住み着いている。

だから、まずわたしが少しだけ勇気を出してみる。
少しだけでいいから、自分の本音を、しっかりと伝える。
ちゃんと、相手を見る。相手の話を聞く。
今、目の前でぶつかり合っている相手の心にも、カオナシが住んでいるから。
少しの勇気を出せないでいるだけかもしれないから。
ただ、どうしていいのか、わからないだけかもしれないから。

だから、まずは、自分から。
カオナシと向き合う千尋のように、丁寧に、実直に、話をしてみるのだ。
その積み重ねが、少しずつ景色を変えていく、そう信じて。