自分のことばに、誠実であれ
ことばが、ただの正論を突きつけたり、自分を防御するために使われたりする。そんな詰まらないためにことばがあるんじゃないんだよ。よっぽど行動の方が、正直でそのひとのことをよくうつしだす。
— yuico (@yuico____) 2016年9月6日
ことばにできない、ことばにしたくない、ことばにするものではない ー
そんな「何か」が、意図せずことばになってしまった時、また表情や間、ちょっとしたしぐさで、それを垣間見てしまった時、
その瞬間が、愛おしい。
どんなにカッコよく語られるたくさんのことばたちよりも、どこか内側にうずめく「何だかわからない、何か」のほうが、その人の本来持つ魅力を、瞬時に、ストレートに、伝えてくれる。
それだけで、その人を好きになる。
人のことばは、その人の考える「意味」なのだろうけれど、
今日見いだした意味と、同じ意味をもった明日がやってくることは、あんまりない。
たった1ミリでも、自分や自分のまわりが変われば、意識せずとも、意味はかんたんに変わるし、自分のことばも自然と変わる。
意味やことばは、とても儚く、一瞬一瞬にのみに在るものだと思う。
とても儚く、一瞬一瞬にのみ在るからこそ、意味やことばなのだと思う。
(だから、私たちは「絶対に変わらない、本質的なもの」を求めていたりするのだろう。)
自分の意味を無理やりつかもうとすると、人は往々にして、意味を決めつけ、あたかも正論かのように話しはじめる。
「自分はこんな普遍的な意味を持っていて、その根拠はこうで、こんな分析をしていて…」って、なんとも理路整然と。
だけれど、「正論を言いたい」という動機で出てくることばは、あまり人の心には伝わらない。
(そもそも、そういう時って、人に伝える云々ではなく、自分を納得させたい、もしくは自分が気持ちよくなりたい、とういうことが多くて、歯がゆくなる。)
強がったり、焦ったり、恥ずかしがったりして、正論を言おうとしなくても、
きっといつか、ちゃんと自分のことばにできるんだ。
だから、簡単につかめない意味たちを、適当なことばで扱ってしまうなんて、本当に本当にもったいない。
自分のことばになるまで、いったん待ってあげよう。
いつも、自分のことばに、誠実であろう。
”行動は言葉よりも声が大きい。真の意思と行動は一致する”
という、ユダヤの古いことわざが、私はとても好きだ。
自分のことばにするのがどんなに下手くそでも、行動で、背中で語る人を見ると、心から尊敬するし、
行動とことばが共鳴しているような人を見ると、とても美しいと思う。
私も、私を尊敬できる、美しい人になりたい。
yuico*