自分のことばに、誠実であれ

 

 

 

 

 


ことばにできない、ことばにしたくない、ことばにするものではない ー

 

そんな「何か」が、意図せずことばになってしまった時、また表情や間、ちょっとしたしぐさで、それを垣間見てしまった時、

 

その瞬間が、愛おしい。

 

 

 

どんなにカッコよく語られるたくさんのことばたちよりも、どこか内側にうずめく「何だかわからない、何か」のほうが、その人の本来持つ魅力を、瞬時に、ストレートに、伝えてくれる。

 

それだけで、その人を好きになる。

 

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人のことばは、その人の考える「意味」なのだろうけれど、

 

 

今日見いだした意味と、同じ意味をもった明日がやってくることは、あんまりない。

たった1ミリでも、自分や自分のまわりが変われば、意識せずとも、意味はかんたんに変わるし、自分のことばも自然と変わる。

 

 

 

意味やことばは、とても儚く、一瞬一瞬にのみに在るものだと思う。

とても儚く、一瞬一瞬にのみ在るからこそ、意味やことばなのだと思う。

 

(だから、私たちは「絶対に変わらない、本質的なもの」を求めていたりするのだろう。)

 

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自分の意味を無理やりつかもうとすると、人は往々にして、意味を決めつけ、あたかも正論かのように話しはじめる。

「自分はこんな普遍的な意味を持っていて、その根拠はこうで、こんな分析をしていて…」って、なんとも理路整然と。

 

 

 

だけれど、「正論を言いたい」という動機で出てくることばは、あまり人の心には伝わらない。

(そもそも、そういう時って、人に伝える云々ではなく、自分を納得させたい、もしくは自分が気持ちよくなりたい、とういうことが多くて、歯がゆくなる。)

 

 

 

強がったり、焦ったり、恥ずかしがったりして、正論を言おうとしなくても、

きっといつか、ちゃんと自分のことばにできるんだ。

 

 


だから、簡単につかめない意味たちを、適当なことばで扱ってしまうなんて、本当に本当にもったいない。

 

自分のことばになるまで、いったん待ってあげよう。

 

いつも、自分のことばに、誠実であろう。

 

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”行動は言葉よりも声が大きい。真の意思と行動は一致する”

 

という、ユダヤの古いことわざが、私はとても好きだ。

 

 

 

自分のことばにするのがどんなに下手くそでも、行動で、背中で語る人を見ると、心から尊敬するし、 

 

行動とことばが共鳴しているような人を見ると、とても美しいと思う。

 

 

 

私も、私を尊敬できる、美しい人になりたい。

 

 

 


yuico*