歳をとったからといって、素晴らしい人になるわけではない

たしか、水彩画を描くという夏休みの宿題か何かで、自分が思い描いているように描けなくて、悔し泣きしながらその下手くそな絵をビリビリに破いたことを、今でも鮮明に覚えている。
水彩画は、丁寧に時間をかけて塗らないと、となりの色に滲んでしまう。その間抜けな滲みが大っ嫌いだった。

わたしが世界の中心だと思っていた。
自分の思い通りにいかないことがあると、泣いてわめいた。
不器用で、かなり我の強い子どもだった。らしい。

 


 

 

すこし経つと、抜きんでいていた我はどこかへいってしまって、物静かな子どもになった。
よく妄想しては、一人で遊んでいた。
家のチラシをみては大きくてきれいなお家に住みたいなとか、ファッション雑誌をみてはおしゃれなお洋服を着たいなとか、いろいろ妄想しては、にやにやしている、ちょっぴり変な子だった。
わたしの妄想の中で、わたしは完璧にキラキラしていた。
他の人たちはわたしのストーリーをつくるために、仕立て上げた。
まるで、ハッピーエンドの絵本の主人公みたいだった。

 

 

 


そして、歳をとった。

 

 

 

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3年前に鎌倉に引っ越してきて、やっと最近、ちゃんとサーフィンをはじめた。
上手に波にのれると、この上なく気持ちがよい。
だけれど、死ぬほどパドリング(波に乗るときに手で波を漕いでスピードをつけること)をしても、洗濯機の中に放り込まれたみたいに、すごい勢いで波にのまれることもある。
波に置いていかれることもたくさんある。
大きな大きな海の隅っこで、ゆらゆら波を待ちながら、「人間って、ちっぽけな存在なんだな」とか、どうでもいいことを思ったりする。

 

 

 

 

27歳になった。
27歳になったわたしは、サーフィンをしているときみたいに、「わたしは世界の一部なんだ」という感覚を持っている。

社会。組織。家族。友だち。

わたしの人生は、網目状につながった数えきれない人やものの上にあって、世界はいつも広かった。

実際自分の思い通りにできることは、笑えるくらい自分の身の回りのわずかなことだけだった。

そして、世界は色々な人たちがいて、色々な考え方があった。
同世代で大きくてカッコいいことをやってる人もいれば、平凡な日々こそ丁寧に楽しんでいる人もいた。
人それぞれで、色とりどりで、だけど完璧な人なんて全然いなかった。
そして、わたしもその一人だ。

子どもの頃にキラキラ妄想していたような、完璧な人になんてなれていない。
どこか欠落していて、ちょっと残念で、でもそこが何か愛おしい。
今は、あの時描いた下手くそな水彩画の、色と色の滲みの上でねむりたい。

 

 

 


できることも増えた。
社会人として、要領よく仕事ができるようになった。
人のために色々動くことの喜びを知った。
いろんな人と上手にコミュニケーションがとれるようになった。
自分の気持ちの整理の仕方を覚えた。

 

 

 


たった20年ほど前までは、わたしは世界の中心にいて、わたしが世界をまわしてるとさえ思っていたけれど、わたしは広い広い世界の上にいるたった一人だった。
社会性を身につけて、不器用さや残念な部分を隠しながら、平凡な毎日を送っている。


そんなもんだ。

 

 

 


一方で、今、あの「自分が世界をまわしているんだ」という感覚を、どこかで探している。
ゆるく丸くなった自分の輪郭を、研ぎ澄ませてやりたいという願望を、どこかで持っている。

人間関係うまくいかないこともあるよね、と思いながら、互いに納得しきるまで向き合うべきだと思ってる自分がどこかにいる。

やりたくないことでもまわりを想ってやれる人はとても素敵だなと思いながら、やりたくないことは全部、絶対にやらない人生を送りたいと思ってる自分がどこかにいる。

自分の感性にうまく折り合いをつけれる人は素敵だなと思いながら、自分の感性でぐちゃぐちゃになってみたいと思ってる自分がいる。

 

この大きな世界の、大きな流れの中でうまくやることを考えながら、同時にその流れを逆走したい、という、衝動みたいなものが頭をよぎる。
そんなことを大好きな人たちにぼやいて、「負けず嫌いだねえ」「頑固だねえ」と言われて、笑ってご飯食べたりすることが、一番楽しい時間だったりする。結局。

 

 

 

それでも。

歳をとるのに比例して、手放してきた「いらないもの」は、本当にいらないのだろうか。
まるくなる過程でとれてきた角は、本当にとるべきものだったのだろうか。
器用になるために自分の人生を費やすことが、本望なのだろうか。

 

 

 


「歳をとったからといって、素晴らしい人になるわけではない」
何かの雑誌で、リリー・フランキーさんが言っていた。
わたしは、リリー・フランキーさんみたいに、ごく当たり前に、静かにフリーでロックで、等身大の大人になりたい。もう大人だけど。

 

 

 


大海原の中で、波にもみくちゃにされないようにと取捨選択している自分。
波にさからおうとしたくなるバカな自分。
矛盾した2人の自分がいる。
あの時ビリビリに破いた水彩画みたいに、滲みあっている正反対の2人の自分を観察してみる。

 

わたしの世界。
わたしだけの世界。
わたしだけの理想。

 

描く人は、わたししかいない。

この世界の主人公はわたししかいない。

ビックウェーブはのるのもいいけど、もはやわたしがつくればいい。

いい大人になった今だからこそ、少しでいいから、ちゃんと自分勝手になる。

ちゃんと、「自分が世界の中心にいる」ということを、自覚してみようと思う。