ゆいこの、徒然なるままに

~ ひとと自然に寄り添った暮らしを、ゆるりと ~

誰よりも美しい蝶になるために、必要なこと

その夜わたしは、きれいに2つ並んだ三日月を、眺めていた。
おいしそうな料理とお酒が並んだテーブルに両肘をついて、彼はとても楽しそうに話しをしている。
そうですか、それはすごいですね、なんて言いながら、わたしは終始、ニコニコしていた。
ニコニコしながら、三日月のような、優しい彼の目を、ずっと眺めていた。

彼は、営業先の社長だ。
はじめて会ったのは、先輩に連れられて行った営業だった。
理路整然と商談を進めながらも、時折、苦労話や冗談を口にして、部屋いっぱいに笑いを起こす。
先輩やわたしのことを立てることを、絶対に忘れなかった。
ビジネスマンとして、また男性として、とても上品な人だ。
また、それ故にこちらが作ってしまう壁を、壊しにいく勇敢さを持った人だった。
「めちゃめちゃかっこいい方ですね!」
商談を終えたエレベーターの中で、つい思っていたことを口にしてしまった。
「いいじゃん、お似合いじゃん! 彼氏と別れたんだろ? もう、付き合っちゃいなよ」
いつも以上にふざけて、先輩が言う。
「何言っているんですか、もう!」
わたしも、ふざけて返した。
まさか、本当に食事に行けるとは思っていなかった。
「今度、美味しいものでも食べに連れて行ってくださいね」
冗談でメールに付け加えて送ってみたら、気さくに応えてくれたのだった。

彼氏以外の男性と二人きりでご飯をたべるなんて、久々だ。
彼氏と別れたのは、いつだっけな……。
なんて、耽りそうになったので、慌ててスパークリングワインのごくりと飲んで、微笑む。
彼も、小さく微笑みかえしてくれた。
小さな泡が、喉を通って、気持ちがよい。
もう一口、飲んだ。
もう一口。
今夜の天気は、曇り、なのだろうか。
目の前に浮かぶ、三日月の光が、どんどんとぼやけていく。

「大丈夫?水、飲みなね」
ペットボトルを、さりげなく差し出してくれた。
わたしは、ベットの上にいた。
どうやら、お酒を飲みすぎたようだった。
ここはどこなんだっけ?
どうやってここまで、たどり着いたんだっけ?
プカプカ浮かぶタバコの煙と共に、ゆっくり思っては、消えていく……。
そっか。
彼の手が、短くなったタバコをもみ消している。
もしかしたら、忘れられるかもしれない。
このまま、元カレを、忘れられるかもしれない。
多分、わたしはそう思ったのだろう。
彼に、キスをしていた。
彼の大きな手のひらが、わたしの背中をそっと包む。
わたしも腕を、彼の背中にまわした。
分厚くて、あたたかい彼の身体が動く。
一緒に、わたしも動く。
そして、落ちていく。
深く、深く、深く……。

いつの間にか、わたしは三日月の光を見失った。
わたしをさわる唇は、指は、いったい誰なのだろう。
一緒に動く身体は、いったい誰なのだろう。
まるで、付き合っていた彼と共にしている感覚を覚える。
最近まで、そうしていたように。
ダメだ。
両目を閉じたら、深い海の中にいるようだった。
地上がどっちで、海底がどっちなのか、わからない。
もがいても、もがいても。
息が、どんどんできなくなっていく。
悪い夢を見ているようだ。
ぎゅっと閉じた目をゆっくりひらいてみると、見失いかけた三日月の光が、浮かんでいた。
なんで今、ここにいるのは、この人なんだろう。
確かわたしは、この人のことを、よく知らない。
なんでこの人なのだろう。
わたしがそばにいて欲しい人は、この人じゃない。
この人じゃ、ない。

大きく息を吸って、起き上がる。
一生懸命に、口を開いた。
「ごめんなさい、無理だ…」
やっとの思いで、無人島にひとり、たどり着いたようだった。
自分が、惨めすぎて、悔しすぎて、悲しすぎて、恥ずかしすぎて、どうしようもなかった。
こんなことになるのだったら、はじめから飲みになんて、誘わなきゃよかった。
馬鹿すぎる。
この上なく、最悪な気分だった。
そして、元カレへの未練をぶちまけたこの状況を、一体どうすればよいのか、全然わからなかった。
わたしは子どもがそうするように、思いっきり拗ねた。
彼に背を向け、黙り込んだ。
そうすることしか、できなかった。

「いやぁ、俺も昔は、大恋愛したなぁ」
しばらくすると、まるで独り言を呟くように、彼は話しはじめた。
ぽつり、ぽつり。
それが何の話だったのか、全く覚えていないのは、きっと耳に入っていなかったからだろう。
ただ、「だから、大丈夫だよ」と、何度も何度も、言ってくれた。
ボロボロなわたしに何を聞くこともなく、ちゃんと後ろから抱きしめてくれた。
優しい人だ。
トクン、トクン、トクン、トクン。
リズムよく、彼の心臓の音が、聞こえる。
あたたかい体温に包まれて、わたしはいつの間にか眠っていた。

朝起きると、彼はいなくなっていた。
「おはよう。先に出ます。ごめんね」
ケータイの画面を、かすんだ目に映してから、ぽっかりと半分あいているベットに放り投げる。
始発で仕事に行ったのだろう。
昨日の夜のことを思い出そうとした。
すぐにやめた。
もう、思い出したくもなかった。

あれから確か、1年が経った。
彼から、1通のメールが届いた。
ドキドキしながら開いたら、とても事務的な内容が、シンプルに書かれていた。
少し安心してから、あの夜の景色を、感情を、感覚を、思い出す。

よく知らない人に、あんなにもボロボロな自分を見せたのは、はじめてだった。
もうこれから、会うこともないかもしれないだろう人に。
不思議な夜だった。
ただ、あの時、彼の分厚い腕の中は、拗ねることしかできなかったわたしにとって、とても大切な居場所だった。
布団なんていらないくらい、彼はあたたかかった。
まるで、フカフカの繭に包まれている、サナギになったようだった。

昔、プラスチック製の虫かごで、アゲハ蝶を幼虫から育てたことがある。
幼虫の時とは一変して、サナギになると、じっと動かない。
本当に蝶になるなんて、にわかに信じがたかった。
だけど、内側では、蝶になるため、とてつもない変態をしているのだそうだ。
一部の蝶は、自らを繭でまとって、守る。
とても賢い生きものだ。

キラキラ光る東京のど真ん中で、心を丸裸にして、感情を思い存分ぶちまけた、あの夜。
深い眠りから覚めてホテルから出ると、灰色のビルの隙間から、うすい水色の朝日が、申し訳なさそうにのぞいていた。
まるで、消し去ってしまいたい昨晩の記憶が、そうしているようだった。
そんなことも全て、今は、懐かしく思い出せる。

彼宛の返信メールに、わたしも事務的な内容を打ち終えて、手を止めた。
「その節は、申し訳ございませんでした」
いや、おかしいな。
「また食事にでも、いかがでしょうか」
いやいや、それはおかしい。
手を止めたまま、考えた。

蝶と違い、人間の変化は、突然やってくる。
新しい未来へ飛び立つのは、もう目前なのに、そんなことを知るすべもなく、落ち込んだり、ないものにしたくなったり、諦めてしまったりする。
わたしたちは、変化に戸惑うばかりで、中々備えられない。

だから、彼に対する感謝の気持ちは、この街の出会う、未来の誰かに送ろう。
いつかのわたしのように、あたたかな繭を必要としている人に、送ろう。
その人が心置きなく、蝶になる準備をするための、居場所になれるように。
不思議な出来事だったなぁ、と笑って振り返られる日を、むかえられるように。

ああ。
いつか虫かごで育てていたサナギは結局、アゲハ蝶に変身することは、なかったのだけれど。
サナギから、美しい蝶が羽ばたいていく瞬間は、きっと、とても美しい。